【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語
44 月に1万人の客を取りこぼす

富士フイルムが開発した糖の吸収を抑えるサプリが500円+税で
あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃

   2001年の第一四半期、TMCのADSL及びSDSLの開通数はようやく伸張が顕著となり始めた。年初には、かの積滞問題はほとんど解消していたたからである。当然であろう。積滞構造という独占企業特有の病理である無作為の作為は、他社に対してはありえても、自社には絶対にあってはならないものであった。

   TMCで散々経験したノウハウがボトムアップからトップダウンへと形を整えて末端現場に下ろされて、NTT社内にやっと規律がもたらされたのである。

   申込みから開通までの時間は驚くほど短縮された。1ヶ月以上が当たり前という平均待ち時間が一気に2週間以内に短縮され、どうにか顧客が耐えられる範囲となった。現金なものだ。

   更に、3月からは、DSLモデムの売切りが認可された。ユーザー宅への有資格技術者の派遣と開通試験実施という開通時の最大コスト要因が取り除かれたのだ。ADSL事業者は型式認定を受けたモデムなら、宅急便などの郵送でユーザー宅に送ることが法的に許されるようになった。固定電話機の店頭売買の自由化に遅れることXX年、DSLもやっと通常の通信器材の仲間入りが認められた。その効果の大きさは次の表から想像できよう。表はその様子を示したものである。

【表 2001年度DSL利用者数】
2001年  7月   8月   9月  10月    11月  12月     1月    2月   3月
全体  1605  2122  2537  3171   5347  9723  16194  34372 70655
Meta   779  1030  1190  1586   2362  4093   5925   9100 15412
待ち  不明  不明  3932  7681  13130  15928  17743  17190 13729

   この表の上段は郵政省が報道資料で公表した全国のDSL利用者数である。NTTからの報告数字をそのまま載せたと思われる。中段はそのうちでTMCが接続に成功し課金に至ったDSL利用者数である。下段は月末に接続を待つTMCサービスへの申込者数である。翌月に開通を持ち越したウェイティング者数と考えてよい。これに翌月開通者数が追いつくのはようやく2001年3月になっていることがお分かりであろう。

   それまでは、毎月1万人近い顧客を取りこぼしていた。1ヶ月以上を待たされた顧客は、大多数が申し込みを取り消すか他の事業者(NTTと推測していた)に流れてしまったのだ。勿論、辛抱強く何ヶ月も待ってくれるTMCにシンパシーを持つ数千の顧客が居た。しかし、主としてメールのやり取りで顧客との関係を保持する我々のやり方では、スピード感の欠如は、顧客維持には致命的な欠陥となった。

   ではこうした状況で、東めたの収支バランスはどんなものであったかというと、売上高の2倍以上の原価(減価償却を含む)が、かかるので売上損失はマイナス100%以上、一般管理費を差し引いた営業損失はマイナス200%前後、という結果であった。売れば売るほど損をする段階にずっと膠着していた。

   ただし、急速に損失率は縮小に向いつつあり、1~3月の好調さを持続できれば、損益分岐点を年内には突破できる見通しは立っていた。

   この3ヶ月、社員の士気はきわめて良好となっていた。開通業務も営業も油が乗り出した感があった。新たに約6万ユーザー獲得で単月黒字達成が計算できるところまでビジネスを追い込んではいたのである。それに必要な資金を約50億円と見積もっていた。しかしもう、会社には余分な投入資金はなかった。ないどころか支払遅延債務、つまり繰り延べてきた買掛金が25億円ほどに膨らんでいた。経営陣はその対応に追われていたのである。

   もうDSLカードもモデムも一切調達できないという状況は4月以降に顕著になった。

   申し込みを受けても、断らざるをえない。顧客獲得数が4月から6月にかけて、一挙に鈍ってしまったのはそのせいである。武器はあるが、弾薬や糧食を断たれた軍隊の状況に追い込まれてしまった。

   社員は、ユーザーの少ない電話局からカードを回収したり、在庫のモデムを修理したりと懸命に走り回るが、大勢は大方変わらない。この状況を打開する抜本策はどこにあるのか、様々な試行錯誤が始まる。


【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。 1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。

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東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。

写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。

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