あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
TMCの歴史には、不可思議なことが数多く起こったが、その中で解けない大きな謎が1つ残っている。
それは2000年末に発生した銀行団離反の原因となったメインバンクの振る舞いである。このメインバンクとは徒歩町にある三和銀行上野支店だ。その真ん前にNTTの電話局があったが、気にしなかった。その支店長はこの支店への赴任以前に数理技研のメインバンクである同銀行大久保支店の支店長であったという旧知の人物である。前々から大の数理技研ファンであり、三和銀行本社に話をつけ、金融工学系のプログラム開発案件をわざわざ紹介してくれるくらいの入れ込みようであった。
ちょうど前年10月に本社が業平から上野に引っ越したのと時を同じくして、彼も上野に赴任した。この偶然には天の采配の妙を感じたものである。前年12月の10億年増資を契機に、TMCもメインバンクを新規に設けようということになり、数理技研とソネットとは独立したところが良かろうとの判断もあり、三和銀行上野支店をメインとしたのである。その10億円はもちろん、その後の50億円増資の払込先や入出金の全てにこの支店が使われ、文字通りのメインバンクであった。
支店長はADSL事業への理解も深く、そろそろ進み出していた金融シンジゲート団形成への全面的な協力を約束してくれていた。だが、この選択は完全に裏目に出て、この銀行のために我々は資金問題で塗炭の苦しみを味わうことになる。
その契機なったのは支店長の交代であった。先の支店長は確か夏に、突然重度の肺ガンが発見され、面会謝絶の危篤状態に陥り、我々の前から忽然と姿を消してしまう。
この後釜で来たのが福田某という支店長であった。この福田支店長が大変な人物であった。前支店長の申し送りも一切できない異常事態での赴任とはいえ、TMCに対する対応が掌を返したように見事に一変する。それまでは、むこうから状況説明を求めていたが、今度はこちらが説明に行かなければ日常の情報交換が進まなくなったのである。
当初、それでも数十億の資金を預け、入金支払を一手に任せてあるのだから、事態に大きな変化はあるまいと高をくくっていた。しかし、どうも様子がおかしい。
ベンチャーあるいはITについて全く無関心なのである。本当は無関心を装っていたのかもしれないし、無知を恥じていたのか、或いは敵意を密かに隠し持っていたのかもしれない。我々が銀行団融資のスキームを説明しても、うんともすんとも言わない。本当ですかという顔をして上目越しに無感動にじっと聞いている。感情の機微を顔に出さないのだが、銀行の姿勢ということに話が及ぶと、突然に顔が高潮する。私も随分と沢山の銀行支店長とは付き合いがあったが、前例のない陰気な小心者であることは直ぐに分かった。
しかしまさかこの支店長がTMC事業の足をすくう敵になろうとは誰もその時点では全く予想できなかった。
この銀行シンジゲートのスキームは前にも説明したとおり、政策投資銀行が三和、三菱、富士、住友信託、第一勧銀などに呼びかけて結成したものである。
当時の政策投資銀行の情報・通信部長の要職にあった間瀬茂氏が中心となり、年初から構想を暖め、政策投資銀行が10億円ちょうど、民間金融機関から各行5億円程度を出資してもらい、これを長期設備資金としてTMCに無担保で貸し付けるというものであった。
総額30億円から50億円、貸付はTMCの資金状況を見て遅くとも年内に実行するが、全体確認が取れ次第直ちにということであった。なんでも戦後復興時の造船産業投資以来、二度目のスキームだと説明され、我々は驚いた。
政府系金融機関としては最高の評価をこのベンチャーに与えてくれたのであり、ブロ―ドバンド通信産業の勃興に寄せる期待がいかに大きかったかが推測できよう。
ここまでになるには6月に開催された株主総会から常勤監査役をお願いした小阪隆造さんのバックアップも大きかった。海軍兵学校最後の卒業生という熱血漢で東大卒業後に開銀総裁小林中の秘書を振り出しにアラビア石油精製の国策会社富士石油社長を勤め、当時は炭素繊維会社などのベンチャー企業指南役に徹していたが、先に述べた土井会計士の紹介で、中国旅行で知己となり、私が乗り出したADSL事業に共感していただいたのである。OBの立場と人脈を生かし、決断ピーク時には政策投資銀行に日参していただく協力ぶりであった。
ついに2000年10月、この銀行団シンジゲート融資案は政策投資銀行の理事会で承認された。あとは各行の承認を待つだけとなった。ここまで来てひっくり返ることはなかろうと一安心していた。度々繰り返すが、TMCの強気の設備投資や全国展開、あるいはTVコマーシャルなどは、この長期融資の裏付けがあったからだ。
しかし、10月、11月と時間が経過するにつれ、政策投資のXXさんの顔が曇り始める。民間銀行の決済が遅れているという。だが、どこがどのようにという詳細は語ってはくれなかった。ともかく慎重である。
我々は八方手を尽くして、これが何と三和銀行であることを突き止めた。驚くべきことにTMCのお膝元ではないか。三和銀行の上層部からの情報入手によれば、決済を見送っているのは上野支店が反対しているからだという。支店は一国一城のようなもので、いかに中央の指示があろうと、反対されれば手の出しようがないという。
国策とはこんなに脆弱なものなのか。メインバンクとはこんなに頼りにならないものなのか、銀行団の団結とはこの程度のものなのか、三和銀行はいったい何を考えているんだ、こみ上げる怒りとともに事態の深刻さに我々は愕然とする。
三和上層部からの情報が真実なら、あの陰気な小心者の裁量権により我々は息の根を止められたことになる。本当であろうか。三和銀行中央から上野支店への依頼が、断るなら断わってかまわないという程度の平凡な貸し出し安閑の紹介扱いだったということになる 。
この信憑性は未だに謎である。さっそく福田支店長に面談を申込み、融資不可の理由を問いただすと、案の定の答えが返ってきた。赤字会社には無担保で銀行はお金を貸しませんという木で鼻をくくったようなものだ。だが言い分通りに受け止められぬ杓子定規さが私には感じられた。銀行団シンジゲートのスキームも話してあり、中央からの問い合わがあったとき、断る前になぜ我々にせめて連絡や相談をしてくれないかという詰問には、それは外部に話せない企業秘密であるとの一点張りで長時間粘っても一向に埒が空かない。ぬらりくらりとして真相はいっさい明かさなかった。その態度は感慨を催すほど立派であった。あきらかに三和銀行は裏切ったのだ。どういう力学が働いたのか、その理由は依然として謎のままであるが。
こうして三和銀行の態度は最後まで変わらなかった。この波紋は大きかった。メインバンクが融資に応じなければ、自行も応じられませんと、既に決済を済ませていた銀行も次々と融資決定を覆す。
実は、他の銀行はほとんどがメインバンクの融資決定を条件に政策投資銀行の協力を申し出ていたということを私は後になって知ることになる。政策投資銀行の理事会決定もまた、民間銀行団の賛同がなればシンジゲートは解散となっていたから、自動的にこの融資話は潰れることとなった。
このどんでん返しというべき将棋倒しを引き起こす最初の歩が三和銀行上野支店であったことが、意識されていたのか、意識されぬまったくの偶然であったのか、いつの日にかこの謎を解きたいと思っている。
12月には、銀行融資がほぼ絶望的であることが我々にもはっきりしてきた。かねがね社内外には、まさかどんでん返しがあるとは思っていなかったので、金融シンジゲートによる国策融資を公言していた手前、これが実現できなくなったことは痛かった。
直接のキャッシュフローの問題も生じたが、なによりも支払能力を疑われる信用不安を産んでしまったことがくれぐれも悔やまれた。さらに、この年の12月には、ITバブル崩壊が世界的な規模で勃発、リスクマネーはベンチャー投資市場から引き揚げられつつあった。資金難を覚悟の経営が始まることが確実に予想された。こうして波乱に満ちた2000年は暮れて行った。
【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。
1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。
東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。
写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。