「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
この年の3月、我々は会社発足以来の念願であったAS9610番という資格をJPNICから獲得した。このASとは、Autonomous Systemの略であり、第一次インターネットサービスプロバイダーとして公式に認められた。
この資格取得により、我々はインターネット・アドレスの第一次取得と配布が許されたのだ。この資格の条件はユーザー獲得の実績とBGPと呼ばれるインターネット・パケットのルーティング技術が確立している事で、我々は見事にこれをパスした。これ以後、K-COMと連携して、ISPとしての顧客獲得に乗り出していった。
しかし顧客獲得は苦難の連続であった。これについては後にも触れる。
この資格取得に関し、我々は様々な困難に遭遇した。
技術的面での困難とは以下のようなものがあった。AS資格獲得の折衝の立役者は若干22歳の黒河内君であった。伊那有線放送の現地採用職員から梅さんの誘いで数理技研に移籍した後、前年の秋からTMCへ入社。彼の社員番号は一桁代。つまり、殆ど創業社員と呼んで過言ではない人物である。
彼は瞬く間にIPネットワークの諸技術をマスターし、ネットワーク・マネージメントのヘッドを務めるまでになっていった。
局舎のDSLAMから、大手町に置いた当社のNOC(ネットワーク・オペレーション・センター)までのネットワークとパケット管理にはNTTコミュニケーションのATMサービスを利用した。この領域はソネットから移籍したATMに詳しいで英国人のアネアス君が受け持った。
ここから先のインターネット網との接続がブロードバンドISPとしての力量を問われる所である。その部分を黒河内君が担当した。ADSL通信はそれまでのISP事業者のようにルータとは直接結線ができない。PPP(ポイント・ツー・ポイント・プロトコル)というプロトコルでADSLのメガビット級の高速通信を瞬時に捌かなければならず、特別の装置をルータの前に配置する。
この装置の下に認証サーバ(RAS)が置かれ、ユーザーIDとパスワードのチェックが行われて接続が認証される。この特別な装置をアグリゲータという。
このネットワーク機器はIPネットワーク機器ベンダーの王様、シスコ・システムズ社もお手上げで、これ専門に特化した精鋭ベンチャー企業のみが、「ホットボックス」とも称されるこの装置を製造することができた。
その中で最も著名な企業がレッドバック社で、同社の機器は米国のADSLサービスを行っていた殆どのCLECで採用されていて、既に確たる実績をあげていた。
当社も3台ほど試験的に購入した。価格はべらぼうに高かった。収容する回線に比例し、1回線当たりのコストが3万円程度になり、今後も1万円を切る見通しは望めなかった。
ここで平野君は決定的な決断を下す。レッドバッグに代る新ベンチャーのより集積度が高くラインコスト(回線1本にかかる経費)の低い製品に切り替えると判断したのだ。
数万の規模ならレッドバック製でもラインコスト、性能面で十分だ。しかし、ユーザーが数十万という規模に膨らんだ時、1回線で1000円を切ると豪語するシャスタ社のアグリゲータ製品を採用するしかないと主張した。
勿論、米国での現地調査を済ませ、製品の性能・機能保証を取り付けるための具体的な契約上の折衝を済ませた上での慎重な採用であった。
「最先端製品シャスタの活用なしに、次世代公衆網と名乗れようか」、これが彼の最大の主張であり、役員会もこれを承認した。しかしこれは結果的に高くついた。上手の手から水が漏れたのだ。
シャスタは集積度向上を追求したために、ソフト、ハードのバグが大量に潜んでいた。負荷が増大すると度々マシン・トラブルが発生し、そのため、サービスの停止、オペレーションの混乱に迄波及した。シャスタの及ぼした悪影響は非常に大きかった。
しかし、この手の新製品ではよくあることだ。若干の未完成度は開発販売元が健全である限り、早急に克服されてゆくのが世の常だ。だがシャスタの場合、シスコとIP通信の覇権を争うノーテルにその秋に買収され、それと伴に中核技術者が続々と退職してしまう事になった。我々は予期しない不運に見舞われたのだ。余談だが、IT最先端技術分野における目利きがいかに困難であるかを示す一例である。
このシャスタは10セットほど購入した。総額で数億円に達したと記憶している。
NOCには他にFore社やCiscoのルータ、スイッチ類、ATM装置など取り揃えられ、50万ユーザーまでは対応が可能な環境を準備した。これらに合計数億円の設備投資資金が費やされた。
だが、これ程の大金を投資した設備がフル活動することにはならなかった。TMCの顧客数は結局最も多い時で、3万ユーザーでおわってしまう。勿論、シャスタを捨て、最初候補に上げていたレッドバックに切り替える案も出たが、終にその余裕は最後までなかった。
ブロードバンドISPとしての最後の懸案は、登り下りともに発生する膨大なIPパケットをインターネット全体とやり取りするいわゆる上部接続コストの負担であった。中でも海外接続は高額だった。当初、国内は1メガビット当たり毎月1万円、海外は10万円の見当であった。
この内、海外は、我々の株主でもある丸紅と提携した外資系通信会社「グローバル・クロシング」のサービスを利用するようになり、コストの大幅に低減化に成功した。この上部接続料金はその後も引き続き急速に下落に向かうのであるが、我々は大した恩恵も受けずに退場することとなったのは残念なことであった。
【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。
1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。
東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。
写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。