「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
1999年の年末と翌年年始にかけて、私は日本を代表する実業界の大立者2人と面談する機会を相次いで持つことになる。孫正義氏と稲盛和夫氏とである。それぞれソフトバンク、京セラという巨大な企業集団を築き上げてきた実力者である。
今日なお、彼等は現在も通信ビジネスに強い影響力を持つ当事者でもある。ADSLを担いで突然に話題のベンチャーとして登場したTMCへの彼らの素早い反応に我々は驚いた。 両者とも、NTTの固い門戸を抉じ開け、ADSL商用試験サービスに乗り出したTMCと何らかの関係を探る動機に端を発していた。
しかし、前者が自らの意志を明確にし、具体的な条件を提示したのに比べて、後者はずっと曖昧で、むしろ、こちらからの擦り寄りを期待するもので、その慎重さが印象に残った。
結果的に、どちらとも業務上あるいは組織的な提携には至らずに終わるのであるが、TMC創業間もない頃のエピソードを紹介するのは、TMCが無名新人のまま強大なパトロンも持たず、何故、単騎駈けでこれほどの大事業に邁進することとなったのかと云う理由を説明する上で読者の理解を促す事になると思う。
1999年12月、ソフトバンク社長室に居た伊那実験組の筒井君から連絡があった。孫正義氏が私をご指名で面談したいとの事だった。話の内容は大体以下のようなものであった。
自分は日本でいち早くADSL機材を取寄せ、実体験をし、それ以来ずっとその可能性に目をつけていた。それらの機材はソネットから購入した。今回のあなた方の手腕には敬意を払う。という前置きから、ずばりTMCの株の3分の1を譲ってくれないかという簡単で明瞭な申し出だった。
既存株でも増資株でもよい、株価も考慮するという。すでに確定していた12月に行われた第三者割当増資10億円により時価総額が20億円超となることを承知の上である。ソフトバンクグループの一画で今後のビジネスを検討してくれとの趣旨である。会社売買など経験もない私には面白い体験であったがオーナーでもない私が即答できるものでもない。しかし彼は気心が知れようと知れまいとこの種の直談判は得意中の得意なのであろう。
さっそく社内検討に入る。すでに私の腹は決まっていたが、全体の意志は尊重したかった。Yahooを手中に収め、ネット財閥を豪語し、インターネットビジネスでは飛ぶ鳥落とす勢いの人物からの直接の提案であるから冷静に検討した。
最大の問題は、本人が何と言おうと、彼は我々の通信インフラ事業そのものに進出したいのか、あるいは単なるベンチャーキャピタルとして振舞いたいのか、この点が不明瞭な事だ。
彼は前年末に東電・マイクロソフトと連合で「スピードネット」を設立、NTTの設備に頼らない無線(FWA)によるラストワンマイルの事業構想を大々的に打ち上げ、試験サービス展開を目論んでいた。
何とその月額料金はISPサービス込みで3千円台と驚異的なものであった。もし事業をやるならここにリソースを集中するはずで、当社への出資は本命ではない。我々のADSLはNTTの設備を迂回する事など不可能だが、NTTを迂回することこそが彼のその時点での戦略判断であるはずだ。
当社への出資はFWA投資のリスク分散かYahooへ投資した二番煎じで投資リターン狙いにすぎまい。私はこう分析した。
もしそうなら、この中途半端さは、我々とは相容れない。たとえ様々なメリットが生じるにしてもこの中途半端さに全株式の3分の1は渡せない。結論として、彼の申し出を丁重にお断りした。
資金獲得だけなら、他に沢山当てがあったのである。仮定であるが、彼がこの時点でYahooBB設立のようにADSL進出に社運を賭けて買収なり共同戦線を提案していたら、ブロードバンド史は別の様相を呈していたことであろう。
後で触れるが、孫正義氏のブロ―ドバンド通信への情熱は我々の次世代公衆網建設への情熱に劣るものではなかったことが後々になって判明する。ただし、その情熱は財閥的規模の資金運用問題に根源を発していた点で、無から有を生もうとした我々とは天地の隔たりがあった。この情熱がADSLに向かうためには、スピードネットでの挫折とTMCの血みどろの対NTT総力戦という過程を経なければ醸し得なかった。
京都に本拠地を構える稲盛氏を我々に引き合わせてくれた人がいた。私が社長を兼務していた投資会社東京エンジェルズの会長で、大阪に本社があるオフコン系ソフトウエア開発会社ウッドランドの浅田社長(当時)である。彼とは同社の前社長の柴田氏以来の長い付き合いで、バリバリの関西人でもある。彼によれば、TMCはNTTを敵とする以上、敵の敵、つまりDDI(第二電電)を設立した京セラ稲盛会長の力を断然借りるべきで、これが戦いの理であると私に説いた。幸い、チャネルがあるので、「教えを請う姿勢で」会ってみないかという。
このチャネルとは、かの「ノーパンシャブシャブ事件」で大蔵省を追われた中島義男氏である。当時、稲盛氏の側近として京セラミタの専務の地位にあった。かねて私はNTTも悪いが第二電電系はその悪の片棒を担いでいる同穴の狢だと思っていたから、こうした組み方が必須とは考えていなかった。しかし、万全を期するのが経営者であると思い直し、彼の申し出に甘んじる事にした。
面談した1月は、唯一の社外盟友であった通信大手KDDのDDIとの合併も時間の問題となっていたし、第2次増資による資金獲得もこれからであった。11月、社長の小林君と広報川村君とで京都の京セラ本社に勇躍乗り込んだ。
稲盛氏は静かに我々の話を聞いてくれた。事業プランや出自の説明、KDDとの事業提携、そしてNTT独占への共通の戦いというところに重点を置いた支援要請の依頼である。大きく頷いた彼からは畳み掛けるように次のような返答が返ってきた。
第1は「お金は出さない、お金は今の時勢は何とでも集められる」と断言される。(ふうふむ、そのいう姿勢か。こっちも願い下げだ。)第2は「この事業のアイディアは優れたものだと評価する、しかしNTTには絶対に勝てないし、必ず潰される」とまで予言されてしまった。
「自分たちもポケベルやPHSで、アイディアでは先行したが、敗北の苦い経験をした。NTTを侮ってはいけない、とんでもない組織だ」と先輩面だ。(うーん、次世代公衆網という大きな発想はないようだ。)そして最後に「もし希望するなら、そちらの事業計画書について検討してみてもよい。」というものであった。(教えを請う姿勢が重要なのである。)そして、すでに50代の我々を見てのことであろう、稲盛ベンチャー教室の教え子の「孫、重田などはいう事を聞かず去っていったが」とも付け加えた。
この間、約1時間。軽口一つたたくでもなく授業を終えた生徒のように我々は引き揚げた。
どうしたものか、私と小林君は迷った。事業計画書の提出とその助言とがセットとなった稲盛氏のこの細かい事業上の指導を今後受けることと引き換えに、絶大な信用も資金も市場も付いてくることは確かであろう。
彼は様々な事業計画書を寝床で読むのが趣味だと中島義男氏から後で教えられ、一驚するとともにこの指導が形だけではないことを知る。商用試験を形骸化し、本サービスに突き進むという我々の無手勝流の戦略はおそらく拒否されるだろう。増資とても注文が付くだろう。
彼のこの存在感の前に、孫氏も重田氏も逃げ出したに相違ない。ましてやアミーバ経営など、はなから敬遠する江戸下町育ちの我々にはまず耐えられない生理的に無理な注文が出されるだろうと判断せざるを得ない。我々は大ナポレオンにかしずくフランス兵ではない。一撃必殺のゲリラのようなものだ。その志たる事業計画書の開示などもってのほかではないか。こうして、丁寧な謝辞の礼状を書いて、我々は稲盛氏との連携を断念する。
この2件の邂逅を経て、巨人たちの肩の上で踊る好機を生かすことが我々には無理な相談であることが判然としてくる。ADSL事業は、最初から最後まで、自分達単独の孤独な事業として突き進むしかない。だからといって、勝機が去るわけではないのだ。
こうして勝負の年、西暦2000年は静かに明けていった。
【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。
1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。
東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。
写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。