【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語
29. 梁山泊もかくや上野ノルドビルの喧騒」

富士フイルムが開発した糖の吸収を抑えるサプリが500円+税で
「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃

   資金調達の目処がついたので、1999年10月早々に我々は創業時に小林君の会社ソネットの中に置いた机1つの仮事務所をたたみ、本格的な自前の事務所を構えることにした。

   北上野にある上野ノルドビルのワンフロア100坪を借り、ここに経営陣や、物珍しさもあるのか、それとも我々のビジネスに共鳴したのか新たに加わった同志が結集した。

   「東めた梁山泊」の開山である。

   その時点で役員と社員の総数は、わずかに10数名でしかない。私、小林君、平野君、杉村君、梅山君の役員連と広報担当の川村君の古参6人組である。

   これにNTTから移籍した権田さん、数理技研から移籍した原口君、黒河内君、ソネットから移籍したアネアス君、平野君がNTT現役組から引き抜いてきた信国君、加藤君、そして小林君が手配した三田君、小林さんという事務方という顔ぶれだ。これに出向をお願いした社外協力者を加えて12月末の商用試験サービスを実現することになった。その後のカードルでもあった。

   ソネットに集積してあったDSL通信装置や測定器、アグリゲータ(レッドバック)、コンピュータなどもやっと安住の地を見出す事が出来た。通信会社らしい環境が徐々に整っていった。

   こんな中で、東京めたりっく通信のロゴを定めた経緯をつい思い出してしまう。ひら仮名「め」の字を丸く囲むデザインである。江戸火消しの「め組」にあやかって、首都東京でADSL通信の普及を妨げる火の粉は打ち払ってやるとの心意気を示したマークである。

   資金手当てもついた、事務所も開けた、人も集まってくる、こんな気分が生んだ会心のロゴであった。

   TMCの短い歴史を一生に喩えるとこの時期は少年時代に相当する。ノルドビルへの移転から年末の「めたバー」開設までがそれにあたる。午前中の日差しのように、ブロードバンド時代の曙光が優しく我々を包んでいた。

   ところで、このノルドビルは、会社消滅の日まで、東めたのサービスオペレーションの中心拠点として使われていくこととなる。引越し後から次々とフロアを借り増して4フロア約500坪の広さまで膨張する。

   それでも手狭となったため、翌年2000年の盛夏には本社アドミニストレーション部門と営業部門は、八重洲の八重洲興行ビルに移転を余儀なくされてしまう。その膨張の要因は、ここにNOC(ネットワーク・オペレーション・センター)、コールセンター、開通センター、ラボラトリー、資材倉庫を意識的に集約したためである。

   飛躍的な増床が可能であったこのビルに拠点を確保したことで、一度の引越しをすることもなく各機能の連携と共に連続的なオペレーションが確保できたのであるから、この拠点の選択は正解であったといえよう。

   最盛時には、200人を越える人で溢れ返るまでになっていた。その時期、このビルの活気は、まさに梁山泊もかくやと思わせるまでに至ったのである。

   なお、このノルドビルのオーナーは、元NTT社員で、伝送関係のエンジニアであった。小林という姓で、我々はオーナーと呼んで数多くいた小林と区別した。彼はビル管理人として我々と接触しているうちに、すっかり我々の熱列なファンとなり、最後には開通業務の一角を担うまでになっていた。増床が順調に進んだ背景にはオーナーの並々ならぬ尽力があったのだ。

   だが、「でぇく」こと杉村君が職人気質に任せてこのビルに施した改造について口を噤む訳にはゆくまい。その改造とは、ビル空き地に建てた実験用メタル線収納棚と駐車場を占拠して設置した大型自家発電装置である。そのいずれも無用の長物で終わってしまった。その撤去費用は馬鹿にはならなかったであろう。こんな事があったにせよ、オーナーの存在は、本来の貸しビルが実際は自社ビルのように活用できたという点で、いかに我々を勇気づけたか、その恩恵ははかりしれなかった。

   商用試験サービスに向かう前哨戦として増資、サービス拠点構築の次に取り組んだ第3番目の課題は、ADSL通信そのものを実体験できる展示場の設営であった。

   この展示場は日本のADSL事業の先駆者であるTMCのビジネス展開において不可欠な構成要素と我々は考えた。

   依然としてADSLの威力は謎のベールに覆われていた。なにしろADSLを体験できる公開の場は、長野県の有線放送以外には日本中を捜しても何処にも存在しなかったのである。快適なインターネットアクセスというものを誰も知りようがなかった。

   例外は、特権として大企業や大学、研究所等が高額な費用負担をして得た専用線接続があっただけである。いずれパソコンショップの店頭あたりで、いやというほど体験できる時代がやってくることは誰でも容易に想像する事は出来たが、実際に目にする事は当時誰も出来なかった。その時代を創るのが我々の仕事であった。

   テレビ普及の要となった街頭テレビの比喩が思い浮かんでいた。取り敢えず会社の体力に合わせて1ヶ所で十分であろう。TMCの知名度を高めるためにも、ADSLファンを1人でも増やすためにも、顧客獲得という営業活動ためにも、展示場の効用は大きいと思われた。

   展示場は数理技研が借りていた新宿ユースビルの1階に定めた。このビルがNTTの指定した実験局6局の1つである四谷電話局の管内にあることが決定的な選択要因となった。距離は約2km、よし、十分にADSLの通信可能範囲内だ。

   新宿南口から徒歩1分、新宿高島屋のまん前に位置する、願ってもないロケーションだった。

   商品の展示ではない、サービスのデモショップである。そのサービスは超高速のインターネットアクセスである。それも24時間繋ぎ放しの定額料金制である。入口にそんな看板を掲げた。誰もが気軽に中に入れるように、また 'めたりっく'を強調してメタリックな感覚を出すように内外装には少々の金をかけた。

   この内装・外装を請け負ったのは、TMCの会社案内や宣伝文書を当初から作成していた(株)交友社の世良田君であった。私の大学時代からの友人で父親から引き継いだこの広告代理店を経営していた。出来上がりは上々であった。

   名称はMetalicBarとした。略称「めたバー」である。

   入場料無料、バーと称したが酒は出さない。カウンターを設け、数台のADSL接続のパソコンをモデムが見えるように配置し、カクテルでも味わって貰う、洒落た気分でインターネットアクセスを実体験してもらう趣向である。

   ここの運営をユースビル10階に陣取っていた松井事務所に委ねた。しかしこの運営担当者の澤田君以下数人は、後にTMCに移籍して貰いノルドビルで手薄なユーザーサポート分野に腕を振るってもらうことになる。

   開設以後のめたバーは、思惑通り賑わった。マスコミからも注目を浴び、取材要請が途絶えなかった。川村君が張付いて広報活動の拠点としていた。また、投資家や各界のVIPが訪れたり、商談の詰め場ともなった。

   しかしADSLがいよいよ本格商用化される2001年には、資金繰り悪化の余波で渋々閉じる運命となり、新宿名物と言われたこのバーは閉鎖される事になった。顧客獲得に相当の寄与があったとは思われるが、その数字は不明だ。

   しかし、東京めたりっく通信を象徴する顔として、またADSLを世に知らしめる拠点として、絶大な役割を演じたのである。

姉妹サイト