【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語
19. 東京めたりっく通信の発足 資本金3千万円で商用試験サービス目指す

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「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃

   なぜ新会社は「めたりっく」という名称を冠したのか?よく尋ねられた。これには明白な理由がある。

   我々が始めようとしていた通信ビジネスのモデルは、人々の常識からは理解し難い「新しさ」を持っていた。それを強調したいがためである。

   その新しさとは「設備」と「サービス」の分離である。世にいうアンバンドリングである。

   つまり、今回の場合でいえば、電話回線設備の所有者であるNTTが一貫して否定的な態度を取り続け、拒否するADSLサービスの提供を、設備の所有者でもない我々が、その設備を使用し、提供するというやり方である。

   例えば、ビルの所有者であり商店主であるNTTは単なる家主であって、店は専門的な知識と意欲のある借家人に経営させろ、という考え方である。

   ところが、世の中で広く普及しているこの普通のビジネスの概念は、日本の通信業界では非常識と映ったようだ。元国営企業であるNTTが公益という観点から上から下まで全てを提供する垂直統合ビジネスモデルは、侵し難い神聖なものとして高く聳えていた。

   この「サービス」の「設備」からの独立・分離を明確に示す概念とは何か。

   NTTが遺棄しようとしている電話話回線用メタリックケーブル資産、これは本来国民のものだ。それをADSLで再活用し、高速インターネット接続サービスを実現しようというのが新会社のミッションである。

   会社の特色はまさにメタルケーブルの活用にあること、これを浮き上がらせて社名としてはどうか。特に、NTTの光化キャンペーンで国民は(NTT自身も含め)メタル線は終わりだと洗脳されている、この洗脳を解くにも、露骨かもしれないが、音の響きが良い「メタリック」に勝る名称はあるまい。

   どうせ1番バッターのトップ引きだ、ここは「目立つ事」が1番だ。

   貧弱な発想を自白するような横文字略語でコンセプトを押し付けるバタ臭い社名は止めたい。だが、カタカナは硬い。また、サービス提供は地域密着のインフラ通信なのだから、地名は東京を付けよう。国際的にも通りが良い。

   実際、今は東京だけで精一杯だ。かくして「東京めたりっく通信」の社名が定まる。

   結果的に、この命名は成功だった。ずばり事業の本質を訴えられたし、軽妙で新鮮な驚きを誘うこともできた。既存の常識的な通信概念を打ち破るにふさわしいこの社名は、この年、日本中を駆け巡る。

   そのシンボルマークは江戸火消しの「め組」のマトイである。破壊消防というコンセプトは我にピッタリではないか。私も小林も、杉村も、江戸の深川、本所の出身だ。町人の反乱は我々のDNAでもあったのだ。

   悲憤慷慨から発した伊那実験組というべき集団にNTTのキャリア・ノンキャリアが合流して出来上がったのがこの会社である。

   だからというべきか、創業者たちは驚くほど、金がなかった。一番金を動かせそうなのは数理技研の社長である私だったが、それでもわずか70人の規模で勿論未上場のソフトウエア屋に過ぎない。

   調達できる資金など、たかが知れている。小林君のソネットも数人の社員しかいない零細企業だ。他は押して知るべし。

   株式会社として名乗りを上げる以上は、資本金が必要だ。

   よし、私と小林でそれぞれ1千万円、その他から1千万円、合計3千万円あれば、何とか格好はつく。他の1千万円は、他の会社の創業社長や伊那実験の参加者など個人の義援金のつもりで出してもらう算段である。これで当面は食いつなごうと覚悟を決めた。

   起業の直接の目的は、郵政省が主張し、NTTが渋々同意した、この年末にも開始される「ADSL商用試験サービス」にNTT以外の通信事業者として直接参加することだ。

   NTT以外の部外者の参加、と一言でいうのはやさしいが、これをクリアするためには様々な技術的合意及び法制的な改革や変更が山ほど必要だ。しかし、この険しい山を乗り越えて、かつて伊那で実現したようにNTTの電話回線網上でもADSLを動かしてみせよう。

   あわよくば、次世代インターネットアクセスのインフラを構築し、顧客を大量に獲得し、一大通信事業者として、伸し上がりたい、これが長期目標である。新興の通信事業者としての成功物語の完成である。

   長期目標は、短期目標が首尾よく達成されての話である。

   3千万円を呼び水として、まずは眼前の戦に必要な人材、資金、世論の獲得をはかろう。この了解の下、定款が認証され資本金の払い込みが終わり、7月29日に会社登記が完了した。そして、第二種通信事業者としての資格登録を郵政省に届け出た。

   本格的資金調達までの間、費用は最小に抑える。

   原則、給料はなし。暫くは伊那方式と同様の方式とした。私、梅山、小林、杉村は他の生業があるから心配ないが、平野、川村は他の収入がないからバイト料程度は出すことにした。事務所は墨田区業平のソネットに置いた。家賃は居候という事で小林君に我慢してもらった。FlexCap2というADSLの商品が常時10セット以上置いてある、ここは絶好のデモ会場にもなる。

   あとは、会社の顔をどうするかが残されていた。社長は小林に任せることにした。それというのも、私の方は数理技研の社長職もけっこう多忙であったのに加え、これとは別に新しく設立する会社の社長を引き受ける話が進行していた。これでTMCの社長を任されるのは無理と判断したからである。

   この別の新しく設立する会社とは、東京エンジェルズ株式会社といい、上場・未上場を含むソフトウエア企業家たちの共同出資で誕生させた若手起業家育成のベンチャーキャピタルである。運営基金は1億5千万円の規模でしかなかったが、折からのネットバブル景気を見越して意気軒昂であった。

   その出資者は元東京インターネット少数派株主が中心で、前年(1998年)秋にPSIネットにM&Aされた時に発生した株式売却益の一部を出資金に充当した。

   そこに、PCA会計、ウッドランド、マクニカなどが合流し、UBA会長職を務めていた私が全体の顔として社長候補に推挙されていたのだ。趣意書を起草し、率先オルグもしていた手前、断るのは難しかった。

   付け加えておくと、本家の数理技研も、出版(丸山学芸図書)とパソコン製造(サイエンティストパラダイス)の子会社2社を抱え、私はその経営に日常的に参加していた。

   更にこの年、景気対策のための第三次補正予算が組まれ、UBA会員がアライアンスを組んでこの補助金を通産省経由で獲得するための活動にも参加し多忙を極めた。3グループで全体は10億円ほどの規模に達したので、これもおろそかには出来ない。

   なお、その1グループは、JIPDECプロジェクトの延長として梅さんがリーダーを勤めており、その提案が採択されたため、この年は彼も東京めたりっく通信に専念できず、兼業の状態となった。

   小林君は、ガラにもないと社長職は固辞したが私の多忙を理解してくれて、私は会長に就任することで代表取締役2名の構成となった。すでに彼は手まわしよく、JAFCOのような大手ベンチャーキャピタルに接触しており、着々と出資勧誘工作を進めていたから、この点では私よりずっと真剣に新会社の財務面の工作に取り組んでいた。

   ただ、彼とても、ソネット社長と兼務であり、本業がどちらかわからない状態になる恐れがあったが、ともかく、誰かが社長をやらなければとの一心であった。

   梅山君が技術担当、平野君が企画担当、杉村君が工事担当(ただし表面には出られず)、それぞれ取締役に就き、川村君は取締役を固辞して広報渉外担当に就いた。この顔ぶれで常勤といえたのは、果たして誰なのか、よく分からない状態で人事構成はスタートしたのである。


【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。 1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。

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東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。

写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。

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