【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語
15. 斎藤忠夫東大教授から来た1通のメール

富士フイルムが開発した糖の吸収を抑えるサプリが500円+税で
「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃

   実際の行動のきっかけとなったのは、1999年早々の1通の電子メールである。

   相手は当時「デジタルアクセス技術に関する研究会」の座長、東京大学工学系研究科教授の斎藤忠夫氏である。内容は私が参加したセミナーに関することであった。

   もともと郵政省など中央官庁にはめったに寄り付かず、東京大学にも私が同じ大学の大学院で紛争を起して退学して以後は近づかないことにしていたのだが、今回は例外だった。

   面識を得たのは、前年12月に彼が主催して開いた青山の有料セミナーである。

   なぜ私がそこに顔を出したかといえば、セミナー演題の1つにNTT沖見取締役を講師とする「ADSLフィールド実験報告」というのがあったからだ。沖見氏はNTT民営化後に米国からの「海外調達要請」の担当責任者となり立派な筋の通った人物として名前だけは知っていた。

   よし、面白い、行ってみよう。すこしは肯定的な事でもしゃべらないかという期待を持っていたが、講演内容はすでに述べたように日本では無理というNTT公式見解の繰り返しであった。私は質問に立ち、伊那実験の話をぶつけて、あまりに悲観的で防衛的なNTTをなじったが、会場は白けっぱなし。

   しかし、斎藤氏は真剣に私の質問ならぬ伊那の実験に興味を示したように見えた。そこで、交換した名刺のメールアドレスを見てある質問を発した。それに対する返事が来たのである。うーん、そういうことか。

   さっそく小林君にも写しを送る。そのメールのやり取りは次のようであった。

【質問】

「(前略)長野での有線放送電話でのADSL実験以来NTTの電話線を借り出した日本版CLECを設立せんものと資金集めを含め準備中です。そこで、今後MDF接続も含め、どの程度の事業上の自由度が獲得できるものなのか、先生のご判断を伺いたく存じます。(後略)」

【返事】

「MDF接続による加入者線のアンバンドリングは審議会の議論でも進めるべきであるとなっております。アンバンドリングは指定通信事業者(NTT)に対して希望者が申し込みをすれば、NTTは正当な理由がなければこれを拒否できないこととなっております。しかし希望者がいなければ、その約款はできません。ADSLはここで止まっています。もし東條さんのところでやるのであれば、日本での発展の緒になると思います。ぜひやってください。手続き関係の相談は郵政省の業務課(貝沼課長)で受けてくれると思います、必要なら小生からご紹介しても結構です。」(全文)
『なるほど、ここで止まっているのか。ふむふむ。日本広しといえど、誰一人手をあげないのか。是非やって下さいか、よっぽど困っているんだな。お公家さんはここまでだ。あとは侍の領分というわけだ、うーん、こりゃあ、やるっきゃねぇな。単騎での正攻法による攻略、この単純明快だが、誰も手を上げない道しか俺たちにはないのだな、』

   こう私は納得した。

   小林君は、私よりずっと現実的な理解をしていた。

   たとえ接続交渉を始めても、法令の改正やなんかで、サービス提供に行き着くには長い時間がかかる。アメリカを動かして外圧をかけさせ法改正を急がせよう。

   東京中央区限定の枠で十分だからさっさと始めれば評判で資金も集まる。そのため、米商務省に太いパイプを持つ弁護士を引っ張り込み、数理技研、ソネット、弁護士の三者連合での起業をという案も飛び出した。

   だが2月以後、ソネット、数理技研でそれぞれにNTTに接続申し込みを打診する過程で、ウルトラCが通用する相手でないことは直ぐに分った。正攻法しかないことにいよいよ確信を深めてゆく。

   3月くらいだろうか、彼から連絡が入る。

「ADSLサービスをやりたいとNTTの相互接続推進室に行って来た、出てきたのはすごい人数だ、こちらは2人だけ。東條君も早く行けよ。」

   という話だ。

   この行動の早さに私は驚いた。何でまた早々としかも単身で乗り込んだんだ。

   彼は敢然と動き出した。よし、俺も行こう。壮士の誓いは果たさねばならない。ソネットと数理技研とは、それぞれ単身で接続交渉に乗り出す。

   新しい会社を1個つくるんだろうな、と思いながら。諸々の細微は、走りながら考えよう。まず行動だ。


【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。 1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。

連載にあたってはJ-CASTニュースへ

東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。

写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。

ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語  【目次】はJ-CASTニュースへ

姉妹サイト