「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
この年(1998年)の夏か秋の一夜、伊那実験以来すっかり中年同士の僚友となっていた小林博昭君が新宿にやってきて呑む機会があった。
この晩の情景と会話はその後何度も話題にしたが、いまだに忘れることができない。
お互いにすっかり沈んでいたが、酒が入ると急に「もうADSLの商売を止めようかと思うんだ」とキッパリと小林君がいう。首を吊りそうな表情である。
「NTTフィールド実験では彼の会社ソネットからは1台も納入できなかった。それでもこれは一時のこと。何よりも悔しいのは日本ではADSLが結局使われないことだ。だってあのフィールド実験はNTTには免罪符のようなものだし、対抗のNCCキャリア(新電電系大手通信会社)はNTTに右に倣えだし、」と延々と愚痴が続く。
無理もない。もともと通信モデムで脱サラしていた彼は、ベル研で「ビデオ・ダイヤル・トーン」用に1990年代初期にADSLが開発された当初から目をつけ、ずっと暖めてきた商材だ。ADSLチップのライセンスをあちらのベンチャーがNTTに売り込み来たときに紹介役も引き受けている。ADSL機器輸入業者として飛躍する彼の展望は一挙に消えうせていた。
伊那ではあんなに輝いて「さらば燎原の火となって」という一文を「伊那ADSL実験」(前出単行本)に投稿したあの元気は何処にもうかがえない。私も酔うほどに、沈鬱な気分にはまって行く。これではいかん、咄嗟に、
「伊那みたいに俺たちでやっちゃうか」
とぼそっとつぶやいた。これは薬だ、そう思いながら。
伊那実験ではSI経験もあり、まったくの絵空事ではないのだが、この一言が運命の一言となろうとは神ならぬ身に分かりようがなかった。小林君もこの軽口を待っていたに違いない。
「うん、そうなんだよ、東條君、それしかないんだ」
とたちまち身を乗り出して気色ばむ。
後は堰を切ったように彼の独壇場となり、アメリカではCLEC(注)というのがあるだのなんだのと、シミュレーションが進む。両名とも通信サービス業を本業としてきたわけではないが、この異郷に覚悟して踏み込むしかないのかもしれない。したたか酔ったこと以外は、覚えているのはここまでだ。だが、2歩後退で服用した薬は確実に効いた。
この日、我々は「もう引けない」という壮士の誓いを交わすことになる。
しかしこの誓いが行動に行きつくにはまだまだ時間がかかる。
彼も私も様々な「乱」の形について思い惑う。米国の先例の情報収集や分析も試みた。また、年明けには両名で香港に海外電話事業ベンチャーを訪問するが明解な姿は見えてこない。市場、資金、組織、NTT対抗勢力との連携、海外圧力などの視点をあれこれ思い悩んだ。
(注)CLEC:Competitive Local Exchange Carrierの略。
既存の通信事業者から設備を借り地域に通信サービスを提供する事業者。
(「競争的地域通信事業者」と呼ばれる。合衆国では1996年の通信法の改正により通信事業者の設備が開放され、これを利用した通信事業への新規参入があいついだ。これがCLECと呼ばれた。既存事業者はILEC( Incumbent Local Exchange Carrier)と呼ばれる。
(CLECの多くは後に経営がいきづまり淘汰されていったが、TMC設立のころはCLECの勢いが盛んなころであり、新しいビジネスモデルとして日本でももてはやされていたのである。なお日本では合衆国と異なり地域( Local)というのはあまり意味をもたない。NTTの設備を借りてサービスを行うことに意義がある。
【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。
1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。
東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。
写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。