【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語
3. NTTはほくそ笑み、独立系ISP万骨枯れる

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「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃

   すでに述べたようにこの東京インターネット(株)は4年しかもたなかった。

   この間に、インターネット人口は100万人程度から1千万人以上にまで、飛躍的に増大し、Tnetの売上は、 96年3月締めの第二期決算の売上7億7千万円が、第四期の98年3月締めでは、53億5千万円までに伸張していた。まさに破竹の勢いであった。

   売上の8割を占める専用線ユーザー数は1,000件を突破し、付与ドメイン数とともに業界第1位IIJに僅差で肉迫しつつあった。累積赤字は9億円に達してはいたが、第4期はわずか1千万円強であれ、初めての単年度黒字経営を実現した。

   自ら仕掛けた価格破壊でおこしたインターネットブームの波に順調に乗っているようにみえた。

   しかしながら実情は、第5期の事業計画での売上予定は前期比6%増57億円しか立てられぬ所まで追い詰められていたのである。累積損は減額するどころか、増大の予測であった。経営陣には戸惑いが、会社全体に徒労感がつのってきていた。

   この失速がなぜ招来したかは明白であった。プロバイダー(ISP)間の競争が一挙に激化したのである。

   2次プロバイダーや零細規模までふくめると95年の300社が3000社にも増大していた。なかでも資本力と販売力で勝る大手計算機ベンダーや通信キャリアが、頃や良しと見て雪崩を打ったようにインターネットビジネスに新規参入して先行のベンチャー型ISP築いてきた市場の蚕食を開始したのである。

   とりわけ、お上品振りを見せていたNTTのOCNブランドでのISPへの形振り構わぬ全国規模での進出は低価格を武器とするだけに脅威となっていた。

   IP接続料金は値下がりし、Tnet発足時の3分の1程度に下落していた。例の64k専用線接続で5万円前後が相場となっていた。しかしながら、その一方でTnetの原価の80%を占めた国内国外への通信料金は、2分の1程度しか下落しなかった。

   NTTの新商品との触れ込みのデジタルアクセス64は53,000円が26,000円へ、同128は74,000円が42,000円に引き下げられたに過ぎない。専用線という独占価格とISP接続の自由競争価格との間に生まれたシェーレに見事にはまってしまったのである。

   この思わぬ構造に喜んだのはNTTであったことに間違いないことはいうまでもない。

   高価なデジタル専用線は全国でせいぜい100万本という市場規模であったものが、インターネット商用化によって、同規模あるいはそれ以上の規模の特需が労せずして発生したのである。Tnetだけでも、40億円の通信費のうち、ほぼ35億円をNTTに吸い上げられる、という有様であったのだ。

   他の独立系ISPの苦境も推して知るべしであろう。彼らの中でNTTのために働くのはもういやだ、こんな自嘲が飛び交う業界の空気であった。

   さらにNTTには専用線以外の特需が発生した。ダイアルアップ接続による電話料金の莫大な収入増である。当時の1千万インターネット人口のうち、ダイアルアップ顧客は800万ほどであったと思われるから、基本料金分の1人1,500円を使ったとして全国 5000万の固定電話需要が一気に10%以上は跳ね上がった勘定となり、単純な収入増は年間ざっと1兆円と見積もれた。

   さすがに気がとがめたのか、暴利の露見を恐れたのか、NTTは午後11時から翌朝午前8時まで従量制課金ではない「テレホーダイ」という姑息な料金プランを投入した。

   この料金は電話回線の場合、市内1,800円、隣接地域3,600円であった。マルチメディア通信の本命として育てていたISDNにも抜かりなくそれぞれ2,400円、3,600円を特別料金として加算すれば、かけ放題のデジタル通信網となった。しかし恐るべし、このISDNは音声通信ベースのナローバンドであったのだが。

   この「テレホーダイ」は失笑を買い、憎悪された。

   日本をのぞいては、そもそも電話回線は市内通話はかけほうだいで、固定料金制が常識であったのだから世界の失笑をかった。安い料金にひかれて亭主や子供が夜更しして、一家中が睡眠不足に陥ったという家庭が続出したのだから、その罪の深さは尋常ではなかった。

   90年代中期、日本でのインターネット時代の開始を嗅ぎ取って商用インターネットに乗り出した覚醒した力の多くは、通信インフラの高コストに泣かされた。

   インターネット時代の到来で1人ほくそ笑んだのはNTTであった。棚からぼたもちが落ちてきたようなものである。

   自作自演的に大騒ぎしたマルチメディア社会なる内実は、どうやらインターネットが埋めてくれる形勢となった。

   現在の専用線とナローバンド(一般電話とISDN)という高収益陣形を改める必要がどこにあろうか。中長期的には、絶大な投資力のもと、FTTH(ファイバー・ツー・ザ・ホーム)の主導権を握っておけば、世はすべて事もなし、という胸算用である。

   しかしインターネット利用の本格普及をはかるなら、「テレホーダイ」が明かしたようにキーポイントは「定額料金制」と「高速性」の実現であることは、すでに誰の目にも隠せなかった。通信キャリアは何か手を打たざるをえないものと万骨(ユーザーとISP)は考えた。

   しかし一将を自認するNTTにとって、「功」は万骨の満足にあるのでなく経営数字の充足にしかなかった。

   かくて「一将功なり万骨枯る」恐るべきネットワーク社会が出現しようとしていたのである。そうである、日本のブロードバンド革命はまさに流産の寸前であったのである。


【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。 1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。

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東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。

写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。

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